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母が語る戦死した次郎兄ちゃん:あの頃、無数の次郎がいた


I have written about my uncle who died at WWII, several months before the end of the war, for the Kindred Project, iearn Australia. Unfortunately, I seem to have lost the draft. If I could retrieve it, I would be happy to post it on Facebook. This was written to show just one story, what did happen to ordinary people living in the war.

 

 昭和17年12月、両親や兄、母を含む姉妹3名を含む近隣の多くの見送りを受けて、他の出征兵たちと出征した。代表して次郎(22歳)は「最後の最後まで戦ってきます」と言って、列車に乗った。

 

 その日は寒く、父(祖父)は、見送りに来た近所の人々のために、たき火をたいていた。そこへ母親が飛び込んできて、「(こんな時に火を)炊いたらあかん」と叫びながら、文字通り、たたき消した。

 

 成績優秀の次郎、旧制中学時代、勉強室を増設してもらい、そこには誰も入れなかった。卒業後、住友金属だったか、当時の大手企業に就職。「もし、生きていれば、立派になっていた」とは母の口癖。もう一つの口癖は、「兄ちゃんは、(今のこんな時代を知らずに)何のために生まれてきたのやろ」。

 

 裕福な親戚の青年の家族だったかが、出征時に、代わりに挨拶させてほしいと言ってきたので、了承していた。だから次郎の挨拶はなかった筈なのだが、前夜、挨拶はやめたいとの話で、急きょ、次郎が挨拶することになった。その親戚は、挨拶した者の中で、生きて帰ってきた人はいないという話を聞いたのがその理由だったのでないかと母。実際、その親戚の青年は無事帰国した。

 

 和泉市の信太山に現在も自衛隊の駐屯地がある。母たちは、そこに慰問に行ったことがある。

 

 「星一つあれば、、、」と次郎。軍隊の中の規律を言いたかったのだろう。

 

 出征から3か月後の18年2月、次郎の手紙が届いた日に、「おめでとうございます。ご子息はお国のために立派に戦死されました」と連絡を受けた。

 

 気丈な母、僕のおばあちゃんだが、激しく泣いた。そこへ、まだ、10代後半の僕の母は、「お国のために死んだんやから、泣いたらあかん(だめ)」と祖母に言ったのだが、今、90歳になって、僕の母は、その言葉を後悔している。

 

 父は、僕の祖父だが、信太山に行って、余りに短い期間に戦死したとのことで、自分の息子が、次郎が、苦しさのために、自殺したのでないかと上官に尋ねた。「わが軍で、そんな(やわな)兵隊はいない」との言葉に、「納得」して帰ってきた。

 

 戦後生まれの僕は、生前の次郎を知らない。今も母の実家の居間の上に掲げられた写真を見ると、昔、僕が、勉強室で勉強していたとき、ラジオの音がうるさいと、ラジオのある部屋に向かって叫んでいたのをなぜか思い出す。

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