岬めぐりを歌っていた子供たちは今
世の中のこと、何も知らずに、田舎育ちの僕が、大学を出て、初めて勤めた学校は、ある山の中の定時制高校。バスで、どこまで坂を上っていくのかと思った、なんとか峠を超えたところ。今は、廃校となっている。
隔週定時制も併設されていたが、繊維産業が盛んな地域。一週目は、朝、勤務し、午後3時からの授業を受ける。二週目は、職場、という生活だったと思う。生徒たちには悪いが、女工哀史という言葉を思い出させる生活だった。
九州は、宮崎県や鹿児島県から、送られてきた女の子たち。ある問題を起こした女生徒の親に電報を打ったが、宮崎県のその子の家は、郵便局から、歩いて(?)二時間のところだと聞かされた。
成績不良で、全日制高校に行けなかった地元の男の子たちと、混じっての定時制。世間知らずで、男子学生の扱いに慣れていなかった僕は、地元の男子生徒たちに、手こずった。
中には、仕事に出てこないと会社から連絡があり、寮の彼を訪ねて、何かやりたいことがないかと聞いたところ、ボクシングと言うのでジムに連れて行ったことがある。が、その後、彼は、そのまま、不登校となって、退学した。
文化祭か何かで、ある女生徒が、「大阪は怖いところです」と語っていたのが、今も、心に残っている。
ある男子生徒を処分しようとしたとき、「俺はやくざに知り合いがある」と語り、夜、木刀を持ったグループが車で学校にやってきたこともある。他の先生たちが、恐れをなして、穏当な処分を、と言った時、「規定通りにしないと、後々、まずい」と主張した僕が、処分の言い渡しをすることになった、そんなこともあった。
貧しさゆえに、成績がよくても、全日制に行けなかった地元の姉妹も入学していたが、あの子たちは、今、どうしているのだろう。施設で育った兄妹、彼らもどうしているのだろう。帝塚山で3年間担任した生徒の名前を思い出せない僕が、40年前の彼らの名前を何故か今も覚えている。
どこだったか、遠足で乗ったバス。その時は何も思わなかったが、昼間の仕事と夜の学校、あ、給食は、パンと牛乳だった。そんな生活の中で、遠足は、特別、楽しみな行事だったのか。彼女たちがバスの中で大きな声で歌っていた「岬めぐり」、今も僕の耳に聞こえてくる。
表面、明るい、活発な子供たちだったが、卒業式のあと、「明日、九州に帰ります」と告げに来た彼女の顔に、うれしさが見えなかったのは何故なのだろう。
40年前、不安の中、夢いだき、大阪にやってきた彼女たち、今、どこで、どうしているのだろう。
窓に広がる青い海よ
悲しみふかく胸に沈めたら
この旅終えて街に帰ろう 岬めぐりより