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以下は、1990年、文芸春秋の巻頭言に掲載された寄稿文の原文である。

 パソコン通信でのぞいたペレストロイカ

 

    帝塚山学院泉ヶ丘中高等学校

    英語科教諭   辻 陽一

 

 たかが、パソコン通信、されど、パソコン通信。一体、今流行のパソコン通信にどれだけの事ができるのか?パソコン通信で情報を取り出すと言うが、例えば、連日マスコミを騒がせているソ連や東欧情勢を僕のようなフツーの人間にどれだけの情報がとれるのか?
そこで、風呂上がりスーパードライのジョッキを片手に、パソコン2台と机だけという殺風景な5畳半の僕の部屋から、一歩も外に出ることなく、ソ連や東欧をのぞいて見ることにした。

 

 パソコン通信で情報を手に入れるには大別して次の二種類の方法がある。すなわち、電子メールや電子掲示板を通じた 手紙のやり取りや意見交換を行なう双方向性のものと、既に活字として新聞・雑誌等で発表されているマスコミ情報に分けられる。前者は一般の人々の意見交換 であるから「草の根」情報とも言えよう。

 

 電子掲示板などの双方向性の場合は、ニュースソースから直接情報提供を受けることができる反面、情報提供者の主観 に偏る恐れがある。逆に、マスコミ情報の場合は、記者やジャーナリストが広い範囲から調べ、記事になるまで、多くの編集者の目を経ているので、内容が偏る 危険は少ないが、我々一般読者にとっては二次的情報と言える。

 

 そこで筆者はエストニア情報をまとめるにあたり、両方から情報を得ながら、それを比較・考証する中で、できるだけ真実に近づいていけるのではないかと考えた。

 

1. 「ソ連」初の草の根ネット

 

 幸いなことに、エストニアにはソ連で最初のBBSと言われるEESTI・BBSというパソコン通信ネットがある。先ず、この中に見られる一般のエストニアの人々の書き込みから、ペレストロイカをめぐるソ連やエストニアの状況を調べてみよう。

 

 EESTI・BBSがエストニア共和国の首都タリンに作られたのは去年の12月14日のことである。筆者がアクセ スに成功したのは、その一ヶ月後であったが、こういう、世界のどこからでも接続できる草の根BBS(電子掲示板)ができたこと自体が、そもそも驚きであ る。エストニアに限らず、チェコ、ポーランド、ブルガリア等の東欧諸国に昨年秋から続々とBBSが出現しているが、これもペレストロイカの広がりを示すも のであろう。

 

 さて、「ソ連で初めて」とエストニアのBBSを紹介したが、この表現は、ひょっとするとまずいかも知れない。エス トニアの人々はソ連を「自分達の国」とは考えていないし、掲示板で使われている言葉はエストニア語以外にフィンランド語と英語で、「国語」であるロシア語 は使われていない。彼らにとっては、ゴルバチョフは「ソ連」に住んでいる人であって、彼らの国の人間ではないのだ。

 

2. ソ連のコンピューター事情

 

 これから、このBBSに書き込まれている膨大な書き込みをまとめながら、パソコン通信で見たエストニアや、ソ連を描いて行くわけだが、諸般の事情から、かなり「ぼかした」表現になることを予めご理解いただきたい。

 

 掲示板での書き込みの内容は、BBSに参加してくる人々の中でプログラマー達の占める割合が多く、どうしてもテクニカルな話題が多い。そこで、先ずソ連のコンピューター事情というものを取り上げてみよう。

 

 それによると、

 

(1) コンピューターサイエンスはソ連の全学校、全学年で教えているが、実際にコンピューターを持っているところはきわめて少ない。

 

(2) ソ連のコンピューターは「一度しか故障しない」つまり、故障しても部品が無いため、一度故障すると使えなくなる。

 

(3) コンピューターは個人では持てない。値段が高くて手に入らないと言う理由以外に、自宅に置いても、組織犯罪(ギャング)にとられてしまう。

 

(4) ゲームもできないギャングがコンピューターを持ち、コンピューターを使える人々が自宅でコンピューターを使えないという奇妙な状況。

 

(5) 大学やコンピュータークラブなどが保有するコンピューターは厳重に保管されている。

 

(6) どの研究所や施設にとってもコンピューターを持っていることは一つのステータスではあるが、経済統計などに利用されることはない。というのは経済統計などは都合の良いようにでっちあげるので、コンピューターは必要ない。

 

(7) コピーが氾濫してソフトの著作権など論外で、ソ連製のコンピューターウイルスがはびこっている。

 

(8) このような状況にも関わらず、プログラマーは実に優秀である。というのは、コンピューターが破損すると、破損した部品の論理設計図を書き、徹底的に部品を チェックする。ソフトの内部も分析してきたので、少ない部品、少ないソフト、情報ではあるが、かなりの知識の蓄積がなされてきている。

 

(9) とにかく情報に飢えており、西側のパソコン雑誌などは、奪い合いになる。

 

 ここから低賃金だが、時間はたっぷりあるソ連の頭脳集団が、矛盾を感じながらも、乏しい情報、少ないハードやソフトを最大限に利用しながら、知識を蓄積していく姿が浮かび上がってくる。

 

3. マスコミが見たソ連のコンピューター事情

 

 以上が、草の根BBSで得たソ連のコンピューター事情であるが、この辺のところを西側のマスコミではどう捉えているだろうか。

 

 以下はダイアログ647 ASAP で「ソ連」と「コンピューター」というキーワードを用いて検索した記事をまとめたものである。 

 

 ひと昔前、ソ連では、コンピューターは文明の進歩の物差しと考えられ、社会の次の発展段階を指し示す社会主義社会のシンボルと見なされ、計画経済の中枢に位置するものとされてきた(1971年第9次5カ年計画)。

 

 言い替えればコンピューターを発展させ、利用できなければ、これは社会主義の挫折と見なされる程の意味を持ってい た。しかし、このことはまた、コンピューターに蓄積される膨大な情報が、ソ連国民に流れて行かざるを得ないし、そのことは、情報を中央に集め、管理しよう とする計画経済や党権力独占とは、そもそも矛盾するものであった。

 

 さて、80年代レーガン政権によるソ連封じ込めと計画経済の失敗により、ソ連経済は崩壊寸前であることが世界中に 知れ渡ることになった。皮肉なことに、生産を水増しして報告する計画経済下の各企業管理者達には、コンピューターで正確な数字がはじき出されたら困るので ある。このことは先のEESTI・BBSでも触れられていた。さらに、ソ連のコンピューターは、「一度しか故障しなと皮肉られるくらい故障が多いとも言わ れるが、これは、部品が無いためである。もちろん、国営企業がブラックマーケットから部品を調達する予算などは論外であるから、一度故障すれば修理できな くなる。

 

 そこで、従業員の数を水増して報告し、浮いた予算でブラックマーケットから部品調達をすると言われる。ここに、EESTI・BBSで描かれていた、「コンピューターを所有するのは、組織犯罪(ギャング)」という図式が理解できるのである。

 

 ここまでは以下の論文を参考にした。

 

 The Great Soviet Computer Screw-up by Daniel Seligman : Fortune v121 p32(4) 1985年7月8日号

 

 奇しくもゴルバチョフが54才の若さで共産党書記局長に選出されたのは、上記論文が書かれた1985年のことであった。官僚組織の改革とコンピューターを中心とした先端技術の獲得に意欲を燃やして登場してきたのには、以上のような背景があったわけだ。

 優秀なプログラマーという点に関しては、任天堂がファミコンのゲームソフトの開発に「ソ連の頭脳を輸入」すること を決定したとあるように西側の企業も認め始めており、コラムニストのJohn Dvorak等は、ソ連の経済危機を救えるかどうかは、低賃金で優秀なソフトを作り出せるプログラマー にかかっていると考えているほどである。

 

4. エストニア版"We Are The World"

 

エストニアに限らず歴史的な転換期にある国々では、民衆の魂の歌が歌われる。僕がエストニア版 We Are The World と言われる Ei Ole と、それを演奏する人気ロックバンド Spe を知ったのは全くの偶然であった。

 

 エストニアのBBSを調べようと、EESTIという語をダイアログで検索したときに取りだした一件の記事が、実 は、BBSに関するものではなくて、エストニアのロックによる Singing Revolution と呼ばれる民族運動の記事だった。Whole Earth Review p56(11) Winter, 1989.

 

 そこで、日経ニューステレコンの59番「新聞一括検索」メニューから87年以降の日経4紙、「朝日」「毎日」「読 売」で、「エストニア」と「ロック」という二つのキーワードで検索してみた。この結果、何と「朝日」に2件、該当記事があっただけで、他は、0件であっ た。「朝日」の二記事の中で、『ソ連・エストニアの「ロック・サマー89」』(89年9月12日夕刊-山之内滋美)の方は、著作権の関係からタイトルしか 見られなかった。他の記事は、「ロック盛ん(いま社会主義は 第一部 クレムリンの外で:20)という見出しで、ロックが当局から長い間、危険視されてき たこと、社会的閉塞状況の中で無気力になっている若者たちに表現のはけ口を与えたこと、等書かれている。(87年8月8日朝刊)

 

 しかし、リン酸塩採掘計画をきっかけにエストニアで激しく燃え上がったと言う「シンギング・レボルーション」(Singing Revolution) と、その後の民主化運動を深く掘り下げた記事は見あたらない。

 

 エストニアに大量に発見されたリン酸塩を発掘しようと言う計画にエストニア人が反対した理由は、共和国全土の25 パーセントに当たる土地が対象になったことに加えて、採掘には2万人のロシア人の導入が予想されたからである。既に共和国人口の3分の1はロシア人で占め られており、首都タリンでは70パーセントと過半数を占めていると言われる状況である。これ以上のロシア人の増加は認めることができないと言うのが大きな 理由であった。

 

 1987年エストニア第二の都市タ-ツ(Tartu)で開かれた音楽祭で一般公開され、放送禁止措置がとられた Ei Ole はエストニア人が自分達の文化を守り、美しい国土をリン酸塩採掘(がもたらす公害)から守ろうという歌であった。

 

 この歌う革命は、民衆の独立運動があるところ、どこでも、歌われ、そこには、1987年以前には禁止されていた青、白、黒の独立エストニアの国旗が振られるのである。最後に若き若き作曲家アロ・マチーセンの「国を思う5曲」の一節を紹介しよう。

 「エストニア人として生まれた我ら、今エストニア人として生く。未来永劫、変わることなく」

 

 "I was born Estonian. I am now Estonian, and it is Estonian I shall remain."

 

 注。EESTI・BBSの書き込みは主として京都のAEGISというネットから取りだしたものを参考にした

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