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今、思えば、あの時の僕には、かなわない?

 

 あの頃僕は何かに憑かれていたのか。人は誰でも一度はそんな時期があるのかも。

 

 サラワクの原住民が木材伐採で奥地へ追いやられていく姿を報告する英文を日本語訳したり(「遊々パソコン情報術」平成3年9月)、アメリカの大統領選挙 について調べたところ、角間隆氏の記述に誤りがあることを見つけ、出版社に送ったり、(「アメリカの大統領選挙をめぐってーー角間論文をきっかけに」英語 教育1985年10月号)、今思えば、ささやかだけど、何かに憑かれて「爆発」をしていたようだ。

 

 書いてあること、今、読むと恥ずかしいと思うこともある。だけど、どうやら、僕は、あの時の僕には、負けている。

 

 だが、おかしいじゃないか。あの頃は、パソコン通信の時代。エストニアには、国際電話回線を使って、テキストだけの情報だった。データ検索サービスの Dialog、これも高額だった。今のように簡単に情報検索できる時代じゃなかった。なのに、あのころの情報への熱意と分析、文章力、翻訳力を見ると、今 の僕には、かなわない。

 自慢している? 

 

 かも。だが、作品は、今は、僕の手を離れている。一読者としての目で眺めている自分がいる。そして、今の自分と、その「著者」を比較して、負けていると思うのだ。

 色々なツールが揃い、何でも調べられる。Skypeを使って、海外の人と話し、生きた情報をとれる。だが、情報にしろ、どんな学問、学習にしても、「思い」がなければ、何かをつかみとることは難しい。

 

 「余命いくばくもないクレイグ君」のチェーンメール、本当にクレイグ君が存在するのか、ニューヨークまででかけ、図書館で、新聞を開いて、事実を確認す る。こんな、どろくさく、しつこく追い求めていく、かつての僕。今思えば、こっけいに見えるが、それでも、あの時の僕には、かなわない。

 

 ようやく僕も、自分の年齢を自覚するようになった

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