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朴正煕軍事政権時代の街角の韓国サラム      

 

 僕が韓国語を学ぶきっかけは、もう40年余り前、僕が20代のとき。当時、韓国は軍事クーデターで朴正煕が大統領に就任した時期。のちに大統領になった故金大中が大統領選挙で当選したのだが、敗れた朴大統領のクーデターで追放された。

 

 その後、1973年の夏、僕が教員研修旅行でアメリカに滞在していた時、金大中氏は、東京のホテルから、姿を消し、ソウルの刑務所に収監されていた。

 

 当時、在日アメリカ大使のライシャワーが、金大中氏の命を救ったとも言われた。

 

 だが、僕の韓国語は、このドロドロした時代状況とは無関係。当時、熱心なクリスチャンだった僕は、韓国から帰国した牧師が、熱気あるキリスト教会の姿を話したのをきっかけに、韓国に興味を持った。

 

 特に、牧師が訪問してきたというソウルの一石教会に行ってみたい。それなら、少し、韓国語をかじろう、まあ、その程度の気持ちで、独学。だが、ハングルを覚えた程度で、あとが続かなかった。

 

 注1:一石教会、今もあるか、再来週のソウル訪問で確かめてきたい。
  1969년 대방동에 예배당을 신축하여 일석교회(一石敎會)라 이름 붙였다.

 

 注2:朴正煕大統領夫人(現在の朴槿恵大統領の母親)が朴大統領演説中に射殺された時、難を逃れた大統領は、毅然とした態度で演説を続けたと一石教会の牧師が話していたらしい。政治的には保守的な教会グループなのだろう。

 

 その後、キリスト教を離れたが、何度もソウルに行った。一人で行っては、ユースホステルや旅館に宿泊。この頃、妓生(キーセン)との宴席を求めて、農協などの団体旅行が一世を風靡していた。だが、独裁政権下、一人でうろうろしていると怪しまれる。

 

 今は、どこかの企業に買収されているが、江南地区に半島ユースホステルがあり、よく、利用した。夜中の2時、ソウル警察(2名・私服)の訪問を受けたのも、ここだった。

 

 ユースホステルだと、他の客と同室になる。そこでホテルの担当者に、「この部屋、誰か、他に泊まる人がいるのですか」と尋ねたのが悪かったのか、その 晩、深夜の警察の訪問となった。電気をつけたところ、入り口で、部屋の隅々を眺めてから、「失礼しました」と言って、その場を去った。

 

 これとは別に、ある時、金浦空港着の僕が、ソウル市内に行こうと空港バスに乗ったところ、隣の座席に、中年の男性が座った。「あなたは、半島ユースホス テルに泊まるのですね」。この意味、分かる?独裁政権の下では、行き先が把握されている、監視されているってことが、僕のような「怪しい」個人旅行だと、 普通なのだ。

 

 さて、キーセン観光とともに、韓国が外貨を稼ぐため韓国観光公社が始めたのが、高校教師招待旅行。独裁政権ということで、日本国内に、韓国批判が渦巻いていた頃のこと。だが、これが、のちに、高校生韓国修学旅行として多くの学校が参加するようになった。

 

 この無料招待旅行に僕が参加したのは、毎日新聞に連載されていた記事を読んだのがきっかけだから、多分、一回目の招待旅行ではなかった。

 

 「あの独裁国家の招待旅行に無料で参加した」これが、国会で大きな問題となった。当時の社会党がある団体などの後押しを受けて、取り上げたのだ。

 

 そんなある時、某A新聞社の記者から電話取材を受けた。いきなり、「先生は、韓国に、なぜ行ったんですか」と詰問調。驚いた僕は、「どういうことです か」と切り返したところ、「あ、実は、、、」となった。僕がマスコミに不信感を持つようになったのは、20代中ごろの,この頃から。

 

 僕の勤務先の高校にも、その団体から抗議の電話が殺到したのか、とにかく、電話があったらしい。同僚から職員会議で謝罪をと言われたこともあった。僕は謝罪の理由がわからず、そのままにしておいた。

 

 公立高校で「出世の道」が絶たれたと思ったのは、この時だった。校長とは別件でも対立した。70歳近くになって、不器用な人生を歩んできたと、我ながら、おかしくなる。

 

 当時、僕は近くの英会話学校でアメリカ人青年たちから英語を習っていた。アメリカの優秀な単科大学の卒業生たちで、短期間、日本体験を目的として、来日していた。

 

 そのアメリカ人を、一人、学校に招いて、授業に参加させた。これが、まずいと、校長。教員の資格もないし、健康診断も受けていないという、今、思えば、管理職としては当然な指摘。だが、大人しい僕だが、この時は、大きな声を出して、校長を非難した。

 

 ということで、その後、一つ、公立高校を4年勤めたあと、25年間勤務することになる私立高校に赴任することになった。この公立高校の校長から「先生 は、慇懃無礼だと聞いています」と言われたことがあったから、こういう「人物調書・評価」が、校長間で伝達されているのだろう。

 

 ところが、公立高校を退職して、赴任した私立高校(正式には、T中学校高等学校)は、創立当初から韓国との学校間交流を行っていた。

 

 この学校で4回、韓国に、生徒を引率。いや、韓国観光公社主催の写真コンテストで優秀賞を得た生徒を引率したのを含めると、生徒引率は5回。

 

 韓国との学校間交流は、今でこそ、スムーズに行われているが、当初から、色々なことがあった。「ソウルを火の海にするぞ」という北の脅し。僕たちが通過した漢江の聖水大橋が二日後だったかに崩落。

 

 名門大学出身者が多く誇り高い名門の高校との交流では、同校教員の一部に、日本との交流反対を叫ぶグループがあって、訪問前夜に同校教頭が、「事情を理解した上で同校を訪問してほしい」と言ってくるなど、色々あった。

 

 もちろん、交流の意義は大きく、卒業10数年以上たった今も、韓国のペンパルと連絡を取り合ったり、会ったりしている生徒も少なくない。

 

 だが、今回のテーマは、「朴正煕軍事政権時代の街角の韓国サラム」だった。

 

 マスコミ報道を見聞きしていれば、、嫌韓・嫌中が日本の流れかのように思えてくる。独裁政権下、日本は、左派系が、軍事政権を激しく批判。今、拉致事件を引き起こした北の独裁政権を見ると、時の流れを感じざるをえない。

 

 親日の朴正煕の娘が、中国寄りの政策をとらざるを得ない世界になるとは、歴史の皮肉と言えるかも。

 

 さて、ソウルの街角。とあるレコード屋で、店主から「古賀政男先生は、今も生きておられますか」と日本語で尋ねられた。南山ケーブルで登っている時、 「ここ、写真、いいですか」と尋ねたとき、「アン・チョースムニーダ(だめ)」と教えてくれた男性。「福田先生は今どうされていますか」と、ここでも、懐 かしそうに、尋ねられたのだった。

 

 大邱の旅館に宿泊した時、パスポートをソウルの旅館に忘れたのを思い出した。旅館の老主人に、「警察に届けてくる」と言ったところ、「それは、ダメ。何 と言う旅館ですか。電話で連絡してあげる」。無事、連絡がついた。その旅館を出る(チェックアウトする)とき、旅館の外まで出てきて、僕を見送ってくれ た。

 

 後年、教科書問題で、ソウルのタクシー、日本人乗車拒否という報道もあった。だが、僕が乗車したタクシーの運転手によれば、乗車拒否する会社は、2社だけとのこと。

 

 この頃、何度もソウルを訪れたが、街角の人たちで、嫌な目にあった記憶がない。

 

 今の「嫌韓」・「嫌中」は、何なのだろう。誰かの意図が背後に感じられないか。今回、久しぶりにソウルに行く。そこで、もう一度、肌で街角を感じてみてきたい。
 

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